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水橋売薬の歴史をひもとく
水橋売薬の歴史 ・・・水橋について 1.1 水橋売薬の発祥 2.1 仲間組、向寄を組織 3.1 水橋売薬の組織と藩の支配 4.1 他地域売薬との競合と連携 5.1 明治新政府による売薬業統制の動き (執筆中) (執筆中)
水橋売薬 ・・・博物館、図書館等に関する情報・リンク ・・・富山県富山市水橋地区に関する情報・リンク
財団法人水橋郷土史料館
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水橋売薬の歴史 0.はじめに 水橋について
加賀藩越中領新川郡水橋、現在の富山県富山市水橋地区は同市の東端に位置し、北に富山湾に面し、東に滑川市・中新川郡上市町、南に中新川郡舟橋村・立山町に境を接しています。 また常願寺川、白岩川そして上市川の三河川が流れるため、この地区ではのどかな田園風景が広がり、また白岩川河口付近の水橋町には、昔ながらの港町の風情が今なお残っています。 現在は富山市の一部となっている水橋地区も、昭和41年(1966)富山市への編入までは、独自の行政で歩んできた歴史を誇ります。 水橋の歴史は古く、水橋地区には弥生時代の遺跡や古墳時代の墳墓が点在しており、大陸との関わりの深さを感じさせます。正史にその名が登場するのは、延喜五年(905)に制定された延喜式が最初で、諸国駅伝馬の宿駅の中に「みずはし」の名が登場します。また、枕草子の渡りの条にも「水はしの渡り」として取り上げられています。 時代は下って江戸時代、水橋を含む新川地方のほとんどは加賀藩(金沢前田家)越中領に属し、新川郡奉行の支配を受けました。 当時の水橋は、川幅250メートルを誇った水橋川河口をはさんで東水橋、西水橋の二つの町に分かれ、漁業の町・北前船が行き交う港町として発展しました。江戸後期以降は売薬業の一中心地としても大いに栄えました。
「越中富山の薬売り」と水橋
さて、現在富山県の主要な産業のひとつであるくすり産業、とりわけ売薬業(現在の配置薬業)は、江戸時代より「越中富山の薬売り」として全国的に有名です。 この富山の売薬は、江戸中期、加賀藩からの分藩で誕生した富山藩(現富山市周辺地域のみ10万石を領地とした)二代藩主前田正甫の時代、藩内の産業振興のため売薬業を奨励したのをきっかけに富山町で始まったものです。 なお、江戸時代以前も立山の修験僧らが各地を布教して廻りながら薬を配ったことが知られており、富山における売薬業の原点とも位置づけられる点を付け加えておきます。 医療の未発達の時代、売薬商は主に親戚等血縁者を使用人として雇い入れ、彼らを「売子」として、幕藩体制下の日本各地を漢方薬の行商にあたらせました。 この代表的な漢方薬が「反魂丹」という丸薬です。売子はあらかじめ幾種類かの薬を家庭に預けておき、半年後または一年後に再びその家庭を訪問し、使用した分の薬代を徴収しました。 現代の信用取引の先駆けともいえるこの商法はのちに「先用後利」(先に使用してもらい後で料金(利益)を得る商法)と呼ばれ、現金収入の少なかった当時の一般庶民に大いに受け入れられ、売薬発展の礎となりました。 こうして富山町の売薬業は、行商ゆえの身上の危険や不安・行商先藩からの営業差し止めといった商売上の不安定さを伴いつつも、大きな利潤を生むことで飛躍的に発展をとげます。そしてしだいに加賀藩越中領の各地へと広がり、越中から多くの売薬行商人たちが全国を回商するようになっていきました。
水橋における売薬は、富山町でおこった売薬業が伝わったことで始まり、急速に発展した歴史を持ちます。 「水橋売薬の歴史」では、水橋売薬の歴史について、様々な観点から探っていきます。 © 2003-2005 Takeshi Kagaya (mizuhashi@yahoo.co.jp)
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